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笹鹿彪(ささかひょう)

画家[日本]

1977年 9月8日 死去脳血栓享年76歳

笹鹿彪は、明治34年(1901)3月11日、鳥取県米子市に、印刷業を営んでいた父又太郎、母たけの2男3女の次男として生まれ、明治40年(1907)米子市明道小学校に入学、大正2年(1913)同校卒業、一時期、銀行に勤務した。大正元年(1912)米子市錦公園で開催された洋画家香田勝太の個展をみて感動をうけ、銀行勤務のかたわら絵画を独習していたが、大正9年(1920)に上京して代議士三好栄次郎(英之)宅の書生となり、ついで原宿の池田仲博侯爵邸に移り、絵の相手役などをつとめながら、岡田三郎助主宰の本郷絵画研究所に学んだ。上京した大正9年第8回光風会展に「二本榎の風景」が入選、翌10年第3回帝展に「少女」が入選となり、同年7月(10日~11日)には米子公会堂で個展を開き、また第3回中央美術展に「祖母の像」が入選した。大正12年、関東大震災のために一時郷里に帰り、このとき宮千代と結婚、翌年再び上京し、焼失した本郷絵画研究所の再建に尽力した。また同研究所の展覧会本郷絵画展(のち、春台展)の結成に努力し、その委員長に推薦され、大正14年(1925)第1回展から昭和18年(1943)まで出品した。帝展、新文展にもつづけて入選し、昭和10年無鑑査、11年文展招待展出品、この年、旧満州国に旅行、13年にはサイパン、テニヤン、ロタ、ヤップ、パラオ島など南洋諸島を6ケ月ほど巡遊し、15年師の岡田三郎助の死去にあい、葬儀に際しては門下生代表として弔辞を呈した。昭和16年東亜留学生会館の壁画を制作、旧満州に再遊、ハルピンで個展を展開した。(参照元・日本美術年鑑 昭和53年版)

笹鹿彪が亡くなってから、46年と202日が経過しました。(17004日)