松旭斎天洋 氏(しょうきょくさいてんよう)
マジシャン[日本]
1980年 9月30日 死去享年93歳
松旭斎 天洋(しょうきょくさい てんよう、1888年〈明治21年〉9月21日 - 1980年〈昭和55年〉9月30日)は日本の奇術師。
敦賀市生まれ。
本名は山田(旧姓:島田)松太郎。
初代・第3代日本奇術協会会長。
日本における奇術の発展と普及に貢献した業績により、日本奇術界の「中興の祖」とも呼ばれた。
人物=
母親は奇術師の松旭斎天一の姉であった。
子供の頃は大阪で丁稚奉公をしていた。
1904年(明治37年)頃に松旭斎天一に弟子入りして松旭斎天松という芸名をもらった。
兄弟弟子には松旭斎天勝や松旭斎天二らがいた。
「天一一座」では天一の手伝いをやりながら、奇術の腕を磨いた。
師匠の天一が死去してからは松旭斎天洋と改名し、1912年(大正元年)に「天洋一座」を旗揚げして座長として独立し活躍した。
この頃の得意技としては師匠の天一から継承した、客に両手の親指同士を紐できつく縛られるが、日本刀を両腕の間に入れたり外したりすることができるという「柱抜」(サムタイ)があった。
昭和恐慌を端緒とした不景気の影響により天洋一座は財政が圧迫されていった為、困った天洋は手品を趣味としていた緒方知三郎の所に相談に行った。
すると緒方から「手品の世界を一般の人たちにも開放してはどうか」 とアドバイスされた。
当時、手品の商品を一般人に販売することはタブー視されていたが、天洋は1931年(昭和6年)に東京の新富町に「天洋奇術研究所」を設立し ……
松旭斎天洋が亡くなってから、44年と52日が経過しました。(16123日)