藤家虹二 氏(ふじかこうじ)
ジャズクラリネット奏者[日本]
2011年 10月24日 死去脳幹ヘルニア享年79歳
藤家 虹二(ふじか こうじ、本名:藤家 光嗣(ふじか こうし)、1933年9月2日 - 2011年10月24日)は、広島県福山市出身の日本のジャズクラリネット奏者。
プロフィール=
1952年、広島県立福山誠之館中学(現広島県立福山誠之館高等学校)卒業。
東京藝術大学音楽学部器楽科に首席で入学し、首席で卒業。
在学中からジャズに身を投じるが、クラシックでも1956年、毎日音楽コンクール管楽器部門で第1位となった。
ベニー・グッドマンに傾倒し、その後はスウィング・ジャズ一筋に演奏を続け、平岡精二クインテット、セクステットから池田操とリズムキングを経て、1959年に南部三郎クインテットに参加。
南部三郎が突如バンドを脱退したため、メンバーで相談の末、藤家がリーダーとなって、同年12月に藤家虹二クインテットとして再出発した。
このためジャズ界で「労なくしてバンドを手に入れた」と評された。
当初はバンド名を、藤家のニックネームにちなみ「ザ・ポーキーズ」としたが、具合が悪いので「藤家虹二クインテット」に変えたという。
テクニックにモノをいわせ、複雑なフレーズを一糸乱れずプレストのリズムに乗って展開、腕達者のプレイヤーを集め、水準の高い演奏を誇った。
その後も長きにわたり「藤家虹二クインテット」を率いてスウィング・ジャズ専門に活躍した。
経営の安定度はジャズ界ナンバーワンとも評された。
1962年7月、「ヘルシンキ平和友好祭」(世界音楽祭 ……
藤家 虹二氏(ふじか・こうじ、本名光嗣=こうし=ジャズクラリネット奏者)24日午後0時30分、脳幹ヘルニアのため東京都板橋区の病院で死去、78歳。広島県出身。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く。喪主は長男敬(たかし)氏。 東京芸大在学中からジャズ演奏を始め、58年に「藤家虹二クインテット」を結成。ジャズクラリネットの第一人者として活躍するとともに、作編曲や映画の音楽監督なども手掛けた。(2011/10/25-11:07)
藤家虹二さんが亡くなってから、13年と29日が経ちました。(4777日)