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賀陽治憲 氏(かやはるのり)

皇族、元外交官[日本]

2011年 6月5日 死去老衰享年86歳

賀陽治憲 - ウィキペディアより引用

賀陽 治憲(かや はるのり、1926年〈大正15年〉7月3日 - 2011年〈平成23年〉6月5日)は、日本の外交官、旧皇族。
賀陽宮恒憲王の第2王男子。
海軍兵学校75期。
1947年10月14日の皇籍離脱までは、治憲王(はるのりおう)。
略歴= 皇族時代= 1926年〈大正15年〉7月3日午前8時50分、賀陽宮恒憲王と同妃敏子の第2男子として誕生。
御七夜の7月9日に「治憲」と命名された。
学習院初等科・学習院中等科を経て、1943年(昭和18年)12月1日、江田島海軍兵学校(75期)に入学。
井上成美中将のもとで学んだ。
入校式においては皇族の生徒として紹介を受け、同期生の敬礼を受けている(広島中央放送局ニュース再録に記録あり)。
治憲王が入校した75期は生徒数が多かったため生徒は分校に振り分けられ、王は岩国分校で教育を受けた。
分校においては柔道を選択、練成した。
最高裁判所長官・三好達、高瀬国雄、海上幕僚長・吉田學らは75期の同期生である。
敗戦後の1945年(昭和20年)10月1日、海軍兵学校を卒業。
このため最終階級は少尉候補生ということになる。
1946年(昭和21年)7月3日に成年に達したため、貴族院皇族議員に就任するが、3か月後の10月8日に辞任した。
兄の邦寿王ら、多くの皇族が5月23日付で辞職しており、最後の貴族院皇族議員であった。
また、本来なら皇族身位令に基づき、20歳の成年を迎えた同年7月3日以降に勲一等旭日桐花大綬章を受章すべき身位にあったが、同年5月の閣 ……

賀陽治憲さんが亡くなってから、13年と170日が経ちました。(4918日)

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