田辺朔郎(たなべさくろう)
土木工学者[日本]
(琵琶湖疏水や日本初の水力発電所を建設)
1944年 9月5日 死去享年83歳
田辺 朔郎(たなべ さくろう、1861年12月2日(文久元年11月1日) - 1944年(昭和19年)9月5日)は、日本の土木技術者[要曖昧さ回避]・工学者。
工学博士。
土木学会長。
位階および勲等は従三位・勲一等。
号は石斎を名乗る。
琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行うなど、日本の近代土木工学の礎を築いた。
北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手し、狩勝峠の名づけを行った。
オープンストリートマップに田辺朔郎の地図があります。
略歴=
幕臣田辺孫次郎(忠篤)とふき子の長男として東京市の根津愛染町に生まれる。
生後9か月で父親が病死し、家督を継ぐ。
叔父の田辺太一が後見人となり、5歳から大久保敢斎より漢学を、福地源一郎より洋学を学ぶ。
沼津兵学校一等教授に着任した太一に伴って明治2年に沼津に同行し、翌年同兵学校付属小学校に入学したが、明治4年に太一が外務省に出仕となったため、朔郎一家も湯島天神町に転居し、近くにあった南部藩の共慣義塾で英語・数学・漢学を学ぶ。
明治6年に岩倉遣欧使節団の一等書記官として洋行していた太一が帰国し、横浜港へ迎えに行った際に外国汽船ゴールデンエイジ号の機関室で蒸気エンジンを見たことで工学に興味をもち、科学者を志して明治8年に工学寮小学校へ転校。
明治10年に工部大学校(工学寮大学校より改称)に進み土木工学を専攻。
在学中に、京都府 ……
田辺朔郎が亡くなってから、80年と77日が経過しました。(29297日)