芸能人・経営者のおくやみ情報

牧野富太郎(まきのとみたろう)

植物学者[日本]

1957年 1月18日 死去享年96歳

牧野富太郎 - ウィキペディアより引用

牧野富太郎(1862-1957)は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町(現:高知県佐川町)出身。位階は従三位。 「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し、命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。牧野富太郎は、1862年4月24日に高知県高岡郡佐川町(現:高知県佐川町)で、近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれた。幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる。元は「成太郎」という名であったが、3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くした頃、「富太郎」に改名している。その後は祖母に育てられた。10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると義校である名教館(めいこうかん)に入り儒学者伊藤蘭林(1815-1895)に学んだ。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだ。1879年(明治12年)、17歳の時に上京し、東京大学理学部に入学。植物学を専攻し、1884年(明治17年)に卒業。卒業後は、東京大学理学部助手に任命される。1888年(明治21年)に、牧野富太郎は『日本植物志図篇』の刊行を開始。この本は、日本の植物を系統的に分類して図示した画期的な著作であり、牧野富太郎の名を日本中に知らしめた。1893年(明治26年)に、牧野富太郎は東京帝国大学理科大学教授に任命される。その後も、植物の分類研究に没頭し、多数の新種を発見・命名した。1940年(昭和15年)、牧野富太郎は78歳で『牧野日本植物図鑑』を刊行。この本は、日本の植物を網羅した大著であり、現在でも植物学の研究者や愛好家にとって必携の書となっている。1957年(昭和32年)、死去。その功績により、従三位を追贈されている。

牧野富太郎が亡くなってから、67年と307日が経過しました。(24779日)

推定関連画像