小倉昌男 氏(おぐらまさお)
ヤマト運輸 元社長[日本]
2005年 6月30日 死去享年82歳
小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 2005年6月30日[1])は、日本の実業家、ヤマト福祉財団元理事長。
ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。
東京都出身。
来歴・人物=
小倉康臣の次男として代々木に生まれた(長男は早世)[2]。
1937年幡代小学校卒業。
同年、当時府立一中を上回る最難関の官立東京高等学校尋常科(現・東京大学教育学部附属中等教育学校)に入学。
1942年秋、東京高等学校高等科卒業。
1943年秋、東京帝国大学経済学部入学。
1947年、東京大学経済学部(旧制)卒業。
1948年9月1日、父・小倉康臣が経営する大和運輸(現・ヤマトホールディングス)に入社[3]。
入社から半年後の1949年2月2日[4]に肺結核を患い4年間の入院生活を送るが、大和運輸がGHQ関連の輸送業務を担当していた為、日本国内ではほとんど入手困難だったストレプトマイシンを米軍ルートで入手できた事もあり、当時としては奇跡的に回復し、1953年7月9日に退院し復職した[4]。
その後、1954年7月1日に静岡県の子会社『静岡運輸』に総務部長として出向し[5]、同社の再建を手がけたのち本社に復帰し、1961年3月に取締役となり、1965年3月には専務取締役となる[6]。
1971年3月30日、康臣の後を継いで代表取締役社長に就任した[7]。
同年7月22日にアメリカ合衆国を訪れ、同国のトラック会社PIE社と業務提携を結び本格的なアメリカとの国際一貫輸送を開始した[7]。
1976年、オイルショック後に ……
小倉昌男さんが亡くなってから、20年と2日が経ちました。(7307日)