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フェルナンド・デ・ラ・ルア 氏Fernando de la Rúa

政治家、元大統領[アルゼンチン]

2019年 7月9日 死去享年83歳

フェルナンド・デ・ラ・ルア - ウィキペディアより引用

フェルナンド・デ・ラ・ルア(スペイン語: Fernando de la Rúa、1937年9月15日 - 2019年7月9日)は、アルゼンチンの政治家。
労働・正義・教育のための同盟(急進市民同盟と国家連帯前線の政治同盟)に所属し、1999年から2001年まで大統領を務めた。
姓はデ・ラ・ルーアとも表記される。
経歴= アントニオ・デ・ラ・ルアと妻エレオノーラ・ブルノの子として、コルドバに生まれる。
地元の軍事学校を経て、コルドバ国立大学から法学の学士号を取得。
裁判官の父が中道・急進市民同盟 (UCR) の熱心な支持者だったことから若くして政治にかかわり、1963年にアルトゥロ・イリャ政権の内務相に抜てきされた。
1970年にブエノスアイレスの名士の娘と結婚し、3子をもうけた。
長男のアントニオ・デ・ラ・ルアはシャキーラを世に送り出したプロデューサーである。
1973年の上院選でブエノスアイレス市選挙区から出馬し、国政デビュー。
数か月後には同年9月の大統領選でUCRのリカルド・バルビン議員の副大統領候補に指名されたが、フアン・ペロンに大差で敗れた。
36歳という若さから、チュペテ(おしゃぶり)のあだ名をつけられた。
1976年のクーデター後はブエノスアイレス大学で刑法学を教えるかたわら、法律論の書物を4冊著した。
民主政復古にともなう1983年の上院選で、圧倒的な支持を得てブエノスアイレス市選挙区から再選。
経済危機のあおりを受けUCR候補が大苦戦した1989年の上院選でも、 ……

フェルナンド・デ・ラ・ルアさんが亡くなってから、5年と136日が経ちました。(1962日)

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