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高倉徳太郎(たかくらとくたろう)

神学者、牧師[日本]

1934年 4月3日 死去自殺享年50歳

高倉徳太郎 - ウィキペディアより引用

高倉 徳太郎、(たかくら とくたろう、1885年4月23日 - 1934年4月3日)は、日本基督教会の神学者、牧師。
植村正久の後継者。
生い立ち[編集] 京都府何鹿郡綾部町字南西町101番地に生まれる。
父は高倉平兵衛、母はさよ。
平兵衛の養蚕の仕事による不在と、夫のキリスト教信仰のために、母さよは夫と子供を棄てた。
そのとき徳太郎は5歳だった。
学生時代[編集] 1903年9月金沢の四高(現金沢大学)に入学し、西田幾多郎の三々塾に入り、1906年6月卒業。
「最も愛すべきものは自己なり」と書いた。
綾部の日本組合基督教会牧師の次女内田光恵に恋愛感情を持ち、結婚を考えるようになる。
この少女は綾部一の麗貌だった。
やがて婚約式を挙げたが、裕福な商家の長男で秀才の誉れ高く、外交官、政治家としての将来を嘱望されていた高倉が、立身出世の望みを捨てて牧師になろうとしたとき、貧乏牧師の妻にはさせないという光恵の母から婚約を破棄された。
1906年12月23日のクリスマス礼拝の日、富士見町教会にて植村正久牧師から受洗。
植村牧師から十字架の説教を聞いた高倉は、「讃美歌81番を歌った。
私は歌って行くうちに泣けて仕方がなかった。
殊に『十字架の上よりさし来る光、踏むべき道をば照らして教う。
』というところに来て、十字架の救いが本当に魂の奥に徹したように感じた。
キリストの十字架さえあれば何も要らないと思うたのであった。
」 だが、その後に十 ……

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