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香川景樹(かがわかげき)

歌人[日本]

(天保14年3月27日没)

1843年 4月26日 死去享年76歳

香川景樹 - ウィキペディアより引用

香川 景樹(かがわ かげき、明和5年4月10日(1768年5月25日) - 天保14年3月27日(1843年4月26日))は、江戸時代後期の歌人。
父は鳥取藩士荒井小三次。
初名は、純徳・景徳。
通称は銀之助・真十郎・式部・長門介。
号は桂園(けいえん)・東塢亭(とううてい)・梅月堂・観鶩亭(かんぼくてい)・臨淵社・万水楼・一月楼。
出仕した徳大寺家では「景樹」を「かげしげ」と呼んでいたが、景樹自身は自身の署名で「かげき」の読みを使っており、こちらの呼称が一般に通用している。
生涯・人物[編集] 因幡国(今の鳥取県)で生まれる。
幼い頃から読書家であり、書道も良く嗜んだ。
7歳の時、父小三次が43歳で病没し、家の柱石を失った景樹の家は一家離散の憂き目に会う。
景樹は親類である奥村定賢に預けられ、実子のいなかった定賢の養子として養育される。
この時純徳、真十郎と名を改める。
清水貞固に師事して学問を学び、15歳で百人一首の註釈を手掛ける。
また堀南湖(堀杏庵曽孫)の元で儒学にも打ち込んだ。
共に清水貞固の元で学んだ学友に林宣義がおり、また荒尾礼就とも交流があった。
宣義、礼就はそれぞれ武士として要職に就いたが、景樹は生来蒲柳の質で武士としての素養に恵まれなかった。
景樹は学者として立身することを志すようになり、26歳の時、妻の包子を随伴させて郷土を離れ上洛、大坂を経由して着京する。
なお、宣義とはその後も終生交流があり ……

関連作品

香川景樹が亡くなってから、181年と92日が経過しました。(66202日)

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