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大野源一(おおのげんいち)

将棋棋士[日本]

1979年 1月14日 死去轢死享年69歳

大野源一 - ウィキペディアより引用

大野 源一(おおの げんいち、1911年9月1日 - 1979年1月14日)は、将棋棋士。
棋士番号7。
東京府東京市(現:東京都台東区)出身期。
木見金治郎九段門下。
生涯= 東京出身だが大阪の棋士・木見金治郎の内弟子となる。
同門の後輩には角田三男、升田幸三、大山康晴がいる。
1929年に四段昇段。
戦前は居飛車党だったが、戦後の1947年(昭和22年)に順位戦がスタートした際に、振り飛車を積極的に採用するようになる。
それまで2日制以上の長丁場が当たり前だった対局が「持ち時間各7時間の1日制」に短縮されたことから、居飛車と比べてあまり長考の必要がない振り飛車を採用したとされる。
この結果、江戸中期以降は廃れていた振り飛車をプロの戦法として復活させ、「振り飛車の神様」の異名を持つ。
升田の向かい飛車、大山の四間飛車に対して大野は三間飛車を得意とした。
彼の戦法は後に大内延介、近藤正和らに受け継がれているといわれる[誰によって?]。
14世名人木村義雄は、当時は角道を止めた上に1手使って飛車を振るため、守勢になることが好ましくないとされていた振り飛車と言う不利な戦法を研究の上で得意戦法としてA級順位戦に返り咲いたことを評価した。
大野の振り飛車の捌きは高く評価され、弟弟子の升田幸三も「大野さんの捌きは日本一だ」と絶賛。
大山康晴は「受け一方ではなく攻める振り飛車だから恐れられている」と評した。
また、久保利明も大 ……

大野源一が亡くなってから、45年と312日が経過しました。(16748日)

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