赤穴宏 氏(あかなひろし)
画家[日本]
2009年 6月3日 死去急性心不全享年88歳
1922(大正11)年3月26日、現在の北海道根室市琴平町に父前田脩、母トミの次男として生まれる。1928(昭和3)年、海軍将校であった赤穴家の養子として入籍。養父赤穴敬一は、海軍の将校であったことから、その後の幼少期には養父の転勤にともない広島県呉市、青森県下北郡大湊町、長崎県佐世保市等に転居。41年3月芝中学校(東京都港区)を卒業、同年4月、東京高等工芸学校工芸図案科に入学。43年同学校を卒業、日本鋼管に入社。翌年6月、教育応召、東部第6部隊(近衛歩兵第8連隊、東京六本木)に入隊。45年8月終戦とともに除隊、日本鋼管に復職。46年1月、古茂田守介(1918―1960)の紹介により、終戦後に設けられた田園調布純粋美術研究室に入り、設立者である猪熊弦一郎の指導を受けた。同年11月、日本鋼管を退職し、東京工業専門学校助手となる。(同学校は、44年東京高等工芸学校が改称、改組されたものである。)48年5月第2回美術団体連合展に「久里浜附近」が入選。また47年9月、第11回新制作派協会展に「三人の女」が初入選。以後同協会展では、49年、50年に新作家賞、55年には新制作協会賞を受賞し、56年に同協会会員に推挙され、2008(平成20)年の72回展まで、毎回出品を続けた。その間、49年に東京工業専門学校が、同学校を母体に千葉大学工芸学部に包括されたため、50年に赤穴は、同学部助教授となった。さらに51年4月に同大学工芸学部は工学部に改組され、同学部専任講師となり、54年に助教授となった。また50年8月、画家塩谷佳子と結婚。赤穴が、画家を志したのは戦後のことである。古茂田守介と出会い、猪熊弦一郎の指導を受けてからのことだろう。とはいえ、工芸図案科で学んでいたため、絵画に対する基礎を体得しており、だからこそ一年後には、公募の展覧会に入選するまでの作品を描くことができた。戦後の荒廃した東京の風景を描いた作品は、焼け残った建物に向けられ、誠実な表現と哀しい情感がただよい、すでにたびたび指摘されていることだが、戦中期の松本竣介の作品に通じる眼差しが感じられる。しかし、新制作派協会展(51年、新制作協会に改称)を中心に創作活動をはじめた赤穴にとって、転機は戦後美術の新しい動向に向きあうことでおとずれている。50年代になると具象から抽象表現と変化している。さらに60年代にはいると、アンフォルメル、アメリカの抽象表現主義の紹介によって、さらに自己の内面と社会とに向き合い、心象風景ともとれる情念的な抽象作品を描くようになった。65年に開催された「戦中世代の画家」展(国立近代美術館)の出品作家のひとりに選ばれていることからも、この時代、つまり戦後美術を担う中堅作家という評価を得るようになっていた。60年代後半には、脈絡無く異なったイメージを描いた複数の絵画をひとつに構成した「組絵画」を試みた。この実験的な制作のなかで、具象的なイメージが復活し、70年代以降には、東京の都市風景と卓上静物を描くようになった。70年、千葉大学工学部教授となった。82年3月、同大学を定年退官、同大学名誉教授となり、同年4月から武蔵野美術大学教授に就任。91年11月、「赤穴宏教授作品展」を武蔵野大学美術資料図書館で開催、初期の作品から近作まで48点を出品。2002年9月には、「«画業55年»―魂へのまなざし 赤穴宏展」を北海道立釧路芸術館で開催し、68点を出品。晩年の静物画は、卓上におかれた壺の静謐な写実性に対して、背景はかつての自作の抽象絵画をおもわせるイメージが描かれ、あたかも画家自身の過去と現在が融合した構成となっていた。長い画歴のなか、具象から抽象へ、さらに抽象から具象へと、その表現を変転させてきたが、一貫してあるのは画家自身の資質であったロマンチシズムであったといえる。(引用元・日本美術年鑑 平成22年版)
赤穴宏さんが亡くなってから、15年と171日が経ちました。(5650日)