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小田氏治(おだうじはる)

戦国武将[日本]

(慶長6年閏11月13日没)

1602年 1月6日 死去

小田氏治 - ウィキペディアより引用

小田 氏治(おだ うじはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての常陸の武将・戦国大名。
人物と家系= 本姓は藤原氏(中臣鎌足、藤原道兼(道長の兄)を祖)とする他、家系は宇都宮氏の一門・八田知家を祖とする関東の名族小田氏で、関東八屋形の一つ。
常陸の大名小田氏15代にして小田氏最後の当主。
後に出家して天庵(てんあん)を号す。
小田政治の子。
小田友治、小田守治の父。
室町幕府第12代将軍足利義晴の従弟に当たる。
娘(年齢的に守治の妹)に結城秀康(徳川家康の子)の側室がいる。
常陸の佐竹義昭・義重父子や下総の結城政勝・晴朝父子、越後の上杉謙信と戦い、相模の北条氏康・氏政父子と手を結んで父祖代々の地の防衛に努めた。
30年以上にもおよぶ本城・小田城争奪戦など度重なる合戦でしばしば勝利を収めるも、上杉氏や北条氏の援助が弱まり孤立すると佐竹氏の激しい攻撃に晒された。
晩年は豊臣秀吉に所領を没収され大名小田氏は消滅したが、後に結城秀康に仕えた。
後世にも「戦に弱い戦国武将」の代表格として語り継がれている。
生涯= 結城政勝との戦い= 父・政治が天文17年(1548年)7月22日に56歳で死去し、小田氏の家督を相続した。
政治の代で小田氏は河越夜戦で関東管領上杉・古河公方足利連合軍に味方して敗れ、北条・佐竹両氏の拡大により小田氏の勢いに陰りが見え始めていた。
家督を継いだばかりの氏治にとって最大の敵は、下総の結城城 ……

小田氏治が亡くなってから、422年と329日が経過しました。(154465日)

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