肥田舜太郎 氏(ひだしゅんたろう)
医師[日本]
(広島で被爆)
2017年 3月20日 死去享年101歳
肥田 舜太郎(ひだ しゅんたろう、1917年1月1日 - 2017年3月20日)は、日本の医師。
広島市への原子爆弾投下により自身が被爆しつつ、直後から被爆者救援・治療にあたった。
以来被爆者の診察を続け、被爆の実相を語りつつ核兵器廃絶を訴え続けた。
経歴=
銀行員の家の長男として広島市で生まれた。
中津川肥田氏の肥田帯刀17代目にあたる。
早稲田第一高等学院建築科に入学、登山と音楽に夢中であった。
あるとき友人から誘われて東京下町の工場街にある託児所を見学、不衛生と貧困のもとにおかれた児童の実情を初めて知り度肝をぬかれたことがきっかけで、医師を志すようになり、日本大学専門部医学科に入学。
「小児衛生研究会」を立ち上げ、託児所の健康管理の手伝いを始めたが、2年次のとき文部大臣荒木貞夫から「自由主義的傾向あり」と解散を命じられ、以来軍人嫌いが確固としたものになった。
太平洋戦争開戦後、学業の多くが軍事教練となる中「医者の勉強を」という学生の懇願の先頭に立って活動。
これが「反軍傾向あり」とされて1942年懲罰召集を受け、一兵卒として岐阜の歩兵第68連隊に入隊。
のち豊橋第一陸軍予備士官学校にサイパン島守備隊小隊長要員として入校したが、校長に敬礼しない問題を起こしたのがきっかけで医学部在学中であることがわかり、「軍医に戻せ」の校長の一声で職業軍人の道を進むこととなった。
1943年、日本大学専門部医学科卒業。
1944年陸 ……
肥田舜太郎さんが亡くなってから、7年と246日が経ちました。(2803日)