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良寛(りょうかん)

侶、歌人、漢詩人書家[日本]

(天保2年1月6日没)

1831年 2月18日 死去享年74歳

良寛 - ウィキペディアより引用

良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日(1758年11月2日) - 天保2年1月6日(1831年2月18日))は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。
号は大愚。
名は栄蔵。
生涯= 良寛像と自賛和歌 心月輪 木刻 越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に、四男三女の長子として生まれた。
生家はこの地区の名主・橘屋であり、父・以南は名主の傍ら石井神社の祠職を務め、俳人でもあった。
良寛は跡を継ぐために名主見習いをしたが、見習い2年目の18歳の時、突如出家して子供の頃に勉学を積んだ、曹洞宗海嶽山光照寺(出雲崎町尼瀬)で修行を始めた。
この年、全国各地で米騒動が頻発し、越後でも天災・悪疫・凶作によって餓死者を出しており、村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ち会わなければならなかった名主見習いの良寛には、「この世は救いのない人間がいる哀れな世界」と感じられた。
両親の説得にもかかわらず良寛は頑なに修行を続け、出家した。
安永8年(1779年)22歳の時、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事する。
良寛は故郷を捨てたが「この世にあらん限りは父母の言葉を身に包み生きよう」と誓った。
円通寺の格式は高く、入門には厳しい戒律を通過しなければならなかった。
経を学ぶことより勤労に励むことを第一としており、「一日作らざる者は、一日食わず」と国仙和尚は日を変え言葉を変えて良寛に説いた。
その教えは ……

良寛が亡くなってから、193年と255日が経過しました。(70748日)