杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)
新聞記者、俳人[日本]
1945年 10月3日 死去享年74歳
杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈1872年8月28日〉 - 昭和20年〈1945年〉10月3日)は、日本の新聞記者、随筆家、俳人。
本名は廣太郎、広太郎(こうたろう)。
別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。
朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役。
生涯=
生立ち=
明治5年7月25日(1872年8月28日)、和歌山県和歌山市にて出生。
父は和歌山藩士の杉村庄太郎。
3歳の時に父と死別し、以来、母の手で育てられる。
小学校を終え、1883年(明治16年)に11歳で和歌山の自修学校(当時統合されて徳修学校になっていたと思われる)に入学し、英・漢・数学を学ぶ。
自修学校は旧藩主の徳川茂承の財政援助を受けて運営される私立の中等学校で、慶應義塾の出身者が英語教師を務めた。
この学校で初めて英語を学ぶが、後年に杉村は「英語発音も福沢流の変ちきりんなもので、thとsとは区別がつかず、VとB、LとRとは皆同じ音のやうに教へられた」と回想している。
12歳になった杉村は、河島敬蔵(日本で初めて原文からシェイクスピア劇を翻訳した先駆者、大阪・英和学舎/現・立教大学教授)から初めて正しい英語の発音を習った。
「変に舌を巻いて、妙な発音をするのが、子供心に大変珍しかつた」という。
しかし、翌1884年(明治17年)には旧制和歌山中学校(和歌山県立桐蔭高等学校の前身)に転じるが、2年後には、校長の菅沼政経と対立し、抗議のために退学する。 ……
杉村楚人冠が亡くなってから、79年と49日が経過しました。(28904日)