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伊藤文吉 氏(いとうぶんきち)

実業家・八代目[日本]

(新潟市北方文化博物館館長)

2016年 10月25日 死去肝臓がん享年90歳

伊藤 文吉(いとう ぶんきち)とは、現在の新潟市江南区沢海に居を構えた豪農・大地主の当主名。
系譜= 初代・文吉= 江戸時代中期の宝暦6年(1756年)正月、初代文吉は20歳で一町二反九畝二十九歩(約13,000平米)の畑を与えられ、一人の百姓として分家した。
分家して間もなく往来の向かい側の紺屋の娘きよを嫁とし、百姓の傍ら、きよの実家の関係から藍の商売を営むようになった。
お金が貯まると畑を買い足し、商売も繁盛するようになり、やがて家を建て替えて蔵を造り、徐々に豊かになっていった。
二代目・文吉= 安次郎は35歳で二代目文吉の名を継いだ。
商売は藍の他に雑穀を扱い、さらに質屋、穀取(現在の倉庫業)と次第に大きくなったため百姓をやめ「いはの家」という屋号を名のった。
二度目の妻の先夫の子、為次郎を養子とし、父子はやがて知行所一番の財力のある豪商としての道を歩み始めた。
やがて小浜の御用達となり、天保8年(1837年)には苗字帯刀を許され、二代文吉からは「伊藤文吉」の名を名のるようになった。
三代目・文吉= 幼名為次郎。
安次郎の二度目の妻の先夫の子。
伊藤家の土台を築きあげた。
四代目文吉を継ぐはずの佐六は44歳で死去したため、三代目文吉の孫にあたる要之介が16歳で五代目文吉を名のることになった。
五代目・文吉= 三代目文吉の孫。
嫁キイとの間に謙次郎をはじめ、子宝に恵まれた。
謙次郎の嫁とりに全力を注いだ。
明 ……

伊藤文吉さんが亡くなってから、8年と27日が経ちました。(2949日)

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