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佐々木俊一(ささきしゅんいち)

作曲家[日本]

1957年 1月27日 死去享年51歳

佐々木俊一 - ウィキペディアより引用

佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年(明治40年)9月27日 - 1957年(昭和32年)1月27日)は戦前・戦後に活躍した作曲家。
生涯= 福島県双葉郡浪江町出身。
本名は佐々木駿一(読みは同じ)。
東洋音楽学校(現 東京音楽大学)でチェロを学ぶ。
同期生に万城目正がいた。
卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで働く。
その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。
レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、日本ビクターにドラムとして入社。
バンドの仕事の合間に作曲をしていた。
そして1932年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒット。
同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、たちまち佐々木はビクターのヒット・メーカーとなった。
その後は作詞家・佐伯孝夫とタッグを組み、「僕の青春」、「無情の夢」、「燦めく星座」、「新雪」、「明日はお立ちか」、「月よりの使者」、「桑港のチャイナタウン」、「アルプスの牧場」、「高原の駅よ、さようなら」、「野球小僧」が戦前・戦後を通して、相次いでヒットする。
1957年1月27日死去。
49歳没。
酒と女をこよなく愛し、豪快に生きた生涯だった。
1963年にその功績をたたえ、浪江町大堀に地元有志によって「高原の駅よ、さようなら」の譜碑が建立された。
エピソード= デビュー作であり出世作となった「涙の ……

佐々木俊一が亡くなってから、67年と298日が経過しました。(24770日)

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