由理滴水(ゆりてきすい)
僧侶・臨済宗[日本]
1899年 1月20日 死去享年78歳
由理 滴水(ゆり てきすい、文政5年4月8日(1822年5月28日) - 明治32年(1899年)1月20日)は日本の江戸末期から明治初期にかけての臨済宗の僧侶。
宜牧は諱、号は滴水、無異室、雲母庵とも称する。
姓は由利、由里とも。
また滴水宜牧ともいう。
生涯=
出生から東山寺僧堂時代=
丹波国何鹿郡(いかるがぐん)白道路村(現・京都府綾部市)に上田彦兵衛、母絹の三男として生まれる。
父は文政8年(1825年)早くに没したので、親類の京都府加佐郡河守村の酒造家である由理清左衛門宅に引き取られ、養子となる。
そして父の遺言に従い、9歳の時に出家をして、加佐郡行永村にあった龍勝寺の住職・大法和尚について出家得度する。
この時僧名を宜牧と名づけられる。
大和和尚は病身で経文祖録は進まず、もっぱら湯薬の世話に明け暮れた。
その後天保8年(1837年)には京都府舞鶴市倉谷にある東山寺僧堂で二年程修行する。
儀山善来の曹源寺そして京都嵯峨広沢の要行院時代=
備前国の曹源寺に儀山善来禅師として入山していた道誉を慕い、その門下につらなろうとして赴くが、すでに入門者が多数であることを理由に謝絶された。
3日間懇請し続けてようやく入室を許されたのは、天保11年(1840年)のことであり滴水19歳(数え)の時であった。
その後曹源寺で研鑽を積むこと10年近くして、28歳の時に儀山禅師の命により安芸国・佛通寺の瞶翁和尚の法化を助け留まること3年であった。
嘉永5年(1852年)に京都 ……
由理滴水が亡くなってから、125年と268日が経過しました。(45924日)