風倉匠 氏(かざくらしょう)
前衛芸術家[日本]
2007年 11月13日 死去肺がん享年71歳
風倉 匠(かざくら しょう、1936年1月23日 - 2007年11月13日)は日本の前衛芸術家、パフォーマーである。
1960年代にネオ・ダダイズムを標榜し、「ハプニングやパフォーマンスによって既成の概念を揺るがした」と評される。
生涯=
生い立ち=
1936年1月23日、橋本庄平の第5子として大分県大分市に生まれる。
1944年、自宅近くが航空廠であったため一家で大野郡長谷川村(現:豊後大野市)に強制疎開させられる。
1945年、川に落ちていた不発弾に触れて爆発、右手人差し指を失う。
1951年、大分県立大分工業高等学校工業化学科に入学。
1952年の年末から腹膜炎を患い、さらに結核にかかる。
このため1953年5月まで休学。
この頃、読書に熱中し詩人を志す。
1954年、高校卒業。
地元の青年団の演劇活動を手伝う一方で、デッサンや油彩画を描くようになる。
名前を「凡倉惰作」とするが「風倉」と読み間違えられたため、以後は風倉と名乗るようになった。
上京=
1956年、武蔵野美術学校油絵科に入学。
武蔵小金井で下宿生活をはじめる。
1956年の第19回大分県美術展に風倉省策の名で出した「女」が初入選。
また砂川闘争に参加。
ここで赤瀬川原平と知り合い、交流が始まる。
また赤瀬川を通じて吉村益信のもとに出入りするようになる。
1957年、大分県教育会館ホールで行われていた大分県総合文化祭で、演劇の幕間に「回転椅子から落ちる」ハプニングを行い、主催者に強制排除させら ……
風倉匠さんが亡くなってから、17年と9日が経ちました。(6218日)