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織田勝長(おだかつなが)

戦国武将[日本]

(天正10年6月2日没)

(ユリウス暦) 1582年 6月21日 死去討死

織田 勝長(おだ かつなが)は、安土桃山時代の武将。
織田信長の5男(もしくは四男)。
幼名は御坊丸。
「勝長」は『甲陽軍鑑』において見られる名で、史料で確認できる実名は、津田源三郎、織田源三郎信房。
法名は林庭宗松。
略歴= 生年は不明で、生母も不明である。
元亀3年(1572年)8月14日に美濃国岩村城(岐阜県恵那市)の城主・遠山景任が亡くなった後、養子として岩村城へ入府したとされる。
遠山氏は武田氏と織田氏の両方に服属していた。
景任の妻おつやの方は系図上、織田家から来た信長の叔母であった。
景任が嗣子なくして死去したため、遠山家内の織田方を支持する家臣派閥の申し入れにより、信長の子を貰い受け遠山氏を嗣がせた。
これにより遠山氏は織田陣営に組み入れられた。
→「おつやの方」も参照 同年11月、甲斐国の武田信玄の西上作戦に際し、武田家臣の秋山虎繁(信友)は別働隊として信濃から美濃を侵攻し、岩村城を包囲した。
武田方を支持する家臣がこれに呼応したことにより岩村城は降伏した。
おつやの方が秋山虎繁を夫として迎え入れ、幼主を養育することを条件として、武田方との和議が結ばれたとされる。
11月14日、武田軍は岩村城へ入城した。
元亀4年(1573年)2月下旬、織田掃部の仲介によって、おつやの方は岩村城代となった秋山虎繁と祝言を挙げ、御坊丸は甲府に送られた。
御坊丸は甲府(山梨県甲府市)で人質となった。
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