上田公長(うえだこうちょう)
絵師、浮世絵師[日本]
(嘉永3年7月21日没)
1850年 8月28日 死去享年63歳
上田 公長(うえだ こうちょう、天明8年(1788年) - 嘉永3年7月21日(1850年8月28日))は、江戸時代に活躍した大坂の絵師。
当時板行された人名録や絵師番付には、必ずといっていい程名が見られ、近世の大阪画壇を語る上で欠かせない人物の一人である。
来歴=
松村呉春及び中井藍江の門人。
大坂の人。
俗称は順蔵。
字は有秋といった。
公長、雍州、水雲閑人と号している。
船場の木綿問屋・六代目阿波屋忠次郎の長男として生まれたと言われるが、元稲荷座大夫某の子という異伝もある。
まず、四条派の絵師・松村呉春に師事、後に中井藍江の門人となってして一家を成した。
一説には、呉春の門に入って松村景文に画を学び、長山孔寅、松本観山、中川山長に師事したともいう。
紀州徳川家藩主・徳川斉順に召されて御用絵師となり、上田姓と陰葵の紋を拝領。
更に十二代将軍・徳川家慶の前で御前揮毫をしたともいう。
作画期は、文化(1804年‐1818年)から安政(1854年‐1860年)期。
画風は四条派の流れを汲むが、文人画風の作品や、俳画なども制作している。
文政(1818年‐1830年)の頃には安堂寺町に住んでおり、後に天保(1830年‐1844年)、弘化(1844年‐1848年)頃、南久太郎町に移り、嘉永(1848年‐1854年)頃、道修町に、そして安政期には古手町に居住していた。
主として地誌本などの挿絵を描いており、略画の絵手本も残している。
代表作として、『公長画譜』天地二冊 ……
上田公長が亡くなってから、174年と84日が経過しました。(63638日)