分部光実(わけべみつざね)
近江大溝藩主[日本]
(文化5年4月23日没)
1808年 5月18日 死去享年53歳
分部 光実(わけべ みつざね)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。
近江国大溝藩8代藩主。
分部家9代。
官位は従五位下・左京亮。
生涯=
宝暦6年(1756年)5月22日[1]、または6月21日[2]、7代藩主・分部光庸の長男として[2][3]、大溝にて誕生[3]。
母は黒川氏[3]。
天明5年(1785年)3月10日、父が隠居したため、その跡を継いだ[3]。
4月19日には初めて領国入りをするための暇が認められた[3]。
天明5年(1785年)6月、藩校「修身堂」[注釈 1]を創設し[5]、中村鸞渓(中村徳勝)[注釈 2]をその長(文芸奉行)に任命した[5][7]。
天明6年(1786年)12月18日、従五位下左京亮に叙任[3]。
天明8年(1788年)6月には心学者の中沢道二を登用するなどして学問発展に尽くした。
また、藩内で博打などが横行して士風が緩んでいたため、博打を禁止し、厳格な法令を制定することで風紀の立て直しを図った。
藩財政においても窮乏化を再建するため、自らが厳しく倹約することで見本とした。
寛政3年(1791年)には大倹約令を出した[8]。
文化5年(1808年)4月14日[1]、または4月23日死去[2]。
享年53[2]。
跡を次男・光邦が継いだ。
系譜=
『寛政重修諸家譜』の記載=
光実は『寛政重修諸家譜』編纂時の当主である。
『寛政譜』の記載は以下の通り[9]。
子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は『寛政譜』の記載順。
父:分部光庸
母:黒川氏
正室:本多正珍の娘
長男(1):分部光弘
長女(2)
二女(3)
三女(5)
四女 ……
分部光実が亡くなってから、217年と44日が経過しました。(79303日)