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阿部正福(あべまさよし)

備後福山藩主[日本]

(明和6年10月10日没)

1769年 11月7日 死去享年70歳

阿部正福 - ウィキペディアより引用

阿部 正福(あべ まさよし)は、江戸時代中期の大名。
備後国福山藩の第2代藩主。
官位は従四位下・伊勢守。
阿部家宗家6代。
経歴= 福山藩初代藩主・阿部正邦の4男として江戸藩邸にて誕生。
正徳3年(1713年)に嗣子として第7代将軍・徳川家継に御目見する。
正徳5年(1715年)、父・正邦の死去により16歳で家督を相続し、寛延元年(1748年)に隠居するまで34年間藩主を務める。
阿部氏としては4代藩主・正倫に次ぐ長期の在任となった。
父・正邦は入封早々から領内の実態を把握し、貢租・職制などの藩制整備に努めたので、正福はその政策を継続してゆけばよいはずであった。
ところが襲封3年目の享保2年(1717年)秋に、藩領全域にまたがる百姓一揆が勃発した。
また、享保4年(1719年)には朝鮮通信使の接待応接、更に享保6年(1721年)福山城下西方にある芦田川の氾濫など多難であった。
農政においては、正福は農民層の分化、すなわち没落農民の増加による格差の拡大を認識していたが、その原因は元禄検地に基因する事実上の増税ではなく、村役人たちの不正や浪費に主因があるとして、綱紀粛正や賦役の公正化等の政策を実施していった。
また、分地や結婚年齢を制限し、農民の極度の零細化を防ごうとした。
これらの政策はある程度の成果を挙げたと考えられるが、享保17年(1732年)の享保の大飢饉によって、そうした努力を帳消しにする程の財政的な打撃を受けたようである。 ……

阿部正福が亡くなってから、255年と12日が経過しました。(93151日)

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