芸能人・経営者のおくやみ情報

水野忠徳(みずのただのり)

幕臣[日本]

(慶応4年7月9日没)

1868年 8月26日 死去享年59歳

水野忠徳 - ウィキペディアより引用

水野 忠徳(みずの ただのり、文化7年(1810年) - 慶応4年7月9日(1868年8月26日))は、江戸時代末期(幕末)の旗本、幕臣。
諏訪庄右衛門頼篤の子。
文政5年(1822年)に水野忠長の養嗣子となる。
忠敬の父。
初名は忠篤。
号は癡雲(ちうん)。
官名は筑後守・下総守。
生涯= 禄高500石の旗本であったが、天保15年(1844年)、時の老中・阿部正弘に認められ、西丸目付に登用される。
以後、使番・御先手組火付盗賊改方加役を経て、嘉永5年4月15日(1852年6月2日)に浦賀奉行、嘉永6年4月26日(1853年6月2日)に長崎奉行に任ぜられた。
長崎奉行への任命は、翌年に再来航が予定されたペリーとの交渉のためであったが、ペリーは下田に来航したため、空振りに終わった。
しかし、ロシアのプチャーチンが日露交渉のために長崎に来航すると、幕府側全権の大目付格・筒井政憲と勘定奉行・川路聖謨を補佐した。
ちょうどその頃クリミア戦争が勃発し、ロシアと敵対することになったイギリスの東インド艦隊司令ジェームズ・スターリングは、プチャーチンを捕捉すべく嘉永7年(1854年)9月7日に長崎へ来港したが、プチャーチンは既に出航していた。
忠徳はスターリングも外交交渉のために来航したと考え、幕府に許可を求めた(スターリングは同年3月に日米和親条約が締結されたことを米海軍より入手していたが、外交交渉は任務に含まれていなかった)。
幕府の許可を得て、忠徳および目付・永 ……

水野忠徳が亡くなってから、156年と86日が経過しました。(57065日)