山根正次(やまねまさつぐ)
政治家、医学者[日本]
1925年 8月29日 死去享年68歳
山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (1858年2月6日) - 大正14年(1925年)8月29日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→大同倶楽部→立憲同志会)、医学者。
経歴=
1888年、プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と。
前列左より河本重次郎、山根、田口和美、片山國嘉、石黑忠悳、隈川宗雄、尾澤主一。
中列左から森林太郎、武島務、中濱東一郎、佐方潜蔵(のち侍医)、島田武次(のち宮城病院産科長)、谷口謙、瀬川昌耆、北里柴三郎、江口襄。
後列左から濱田玄達、加藤照麿、北川乙治郎
長門国阿武郡椿郷東分村(現在の山口県萩市)出身。
長州藩の医学館であった好生堂で蘭学を、中学校でドイツ人教師からドイツ語を学んだ。
東京大学医学部を卒業し、長崎医学校一等教諭に任じられた。
1885年(明治18年)、長崎でコレラが大流行すると、検疫委員として防疫に尽力した。
1887年(明治20年)よりドイツ・オーストリアに留学し、法医学を学んだ。
帰国後は、警察医長、医務局長、警視庁第三部長を歴任した。
1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
当選回数は6回を数えた。
また東京市会議員も兼ねた。
さらに、1904年(明治37年)に日本医学校(現在の日本医科大学)が創設されると、初代校長に就任した。
墓所は青山霊園。
栄典=
1902年(明治35年)12月27日 - 正五位
著書=
『虎列剌病汎論』(英蘭堂、1887年)
『実用検毒学』(誠之堂、1894 ……
山根正次が亡くなってから、99年と84日が経過しました。(36244日)