待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)
鳥羽天皇の中宮[日本]
(崇徳・後白河両天皇の母、久安元年8月22日没)
(ユリウス暦) 1145年 9月10日 死去享年45歳

藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、1101年〈康和3年〉- 1145年9月10日〈久安元年8月22日〉)は、日本の第74代天皇・鳥羽天皇の皇后(中宮)。
崇徳・後白河両天皇の母。
女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。
系譜=
閑院流藤原氏の出身。
父は正二位行権大納言・藤原公実、母は左中弁・藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母・光子。
太政大臣・実行(三条家祖)は異母兄、権中納言・通季(西園寺家祖)、左大臣・実能(徳大寺家祖)、大炊御門経実室・公子(二条天皇の外祖母)らは同母兄姉。
略歴=
幼少時より、時の治天の君・白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われた。
7歳の時に実父・公実を失う。
永久3年(1115年)頃、摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がったが、璋子の素行に噂があったため忠通の父・忠実は固辞し、白河法皇の不興を買った。
永久5年12月13日(1118年1月6日)、白河法皇を代父として、父方の従弟・鳥羽天皇に入内、4日後には女御の宣旨を蒙った。
1ヶ月ばかり経った永久6年(1118年)正月26日、立后され中宮を号す。
元永2年(1119年)5月28日、第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)を出産。
その後、保安3年(1122年)6月、禧子内親王を産む。
保安4年(1123年)正月28日、白河法皇は5歳になった顕仁に践祚させ、璋子も翌天治元年(1124年)11月24日に院号を宣下されて待賢門院と称した。
同天治元年5月に通仁親王、翌2年(1125年)5月に君仁親王を ……