池玉瀾(いけのぎょくらん)
画家、歌人[日本]
(池大雅の夫人、天明4年9月28日没)
1784年 11月10日 死去
池 玉瀾(いけ の ぎょくらん)は、江戸時代中期の文人画家・歌人・書家。
名は町(まち)、別号は松風、遊雅(遊可)、室号は葛覃居、海棠窩、法名は宝誉玉瀾信女。
旧姓の徳山玉瀾の名でも知られる。
池大雅の妻で、夫同様に様々な逸話が残る。
生涯=
牡丹に竹図(メトロポリタン美術館)
京都祇園の茶屋・松屋の女亭主の百合と旗本の徳山秀栄との間に生まれる。
玉瀾は幼時から茶屋の常連客だった柳沢淇園に絵を学び、彼の別号である「玉桂」から一字とった「玉瀾」の号を授けられた。
弟子の一人の池大雅を彼女に紹介したのも淇園だった。
玉瀾の夫の大雅は、南画の画風を彼女に教えた。
また、夫婦ともに和歌を冷泉家より学んだ。
玉瀾による秋の歌二首(18世紀後半)
玉瀾は、当時の既婚女性では一般的だった引眉をしていないことが注目される。
大雅は生前、自分の死後に彼女が困窮することがないようにと書画を数多く制作しており、そのため安永5年(1776年)に夫が没した後も、玉瀾は不自由することなく生活を送った。
彼女はその8年後の天明4年9月28日(1784年11月10日)に病没した。
なお、玉瀾は大雅の葬られた浄光寺ではなく、母の百合が眠る金戒光明寺の塔頭・西雲院に埋葬されたが、その理由については不詳である。
業績=
秋景山水扇面図 (メトロポリタン美術館)
フィラデルフィア美術館長アン・ダーノンコートによれば、「18世紀の日本の女性が画家であ ……
池玉瀾が亡くなってから、240年と9日が経過しました。(87669日)