西寛二郎(にしかんじろう)
陸軍大将、子爵[日本]
1912年 2月28日 死去享年67歳
西 寛二郎(にし かんじろう、弘化3年3月10日(1846年4月5日) - 1912年(明治45年)2月28日)は、日本の陸軍軍人。
教育総監、遼東守備軍司令官、軍事参議官等を歴任する。
官位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵。
経歴=
薩摩藩士、西太郎兵衛の長男として生まれ、幼少の頃から島津久光の下に仕えた。
戊辰戦争等転戦し明治4年(1871年)7月、陸軍に入る。
初任は陸軍中尉で御親兵2番大隊付を命ぜられた。
同年12月、陸軍大尉に進み1873年(明治6年)12月、陸軍少佐に任ぜられる。
1874年(明治7年)の佐賀の乱には征討参謀として出征、続く台湾出兵にも従軍し1877年(明治10年)の西南戦争では別働第1旅団参謀として参戦するが、この時負傷する。
その後、近衛幕僚参謀・参謀本部管東局員を経て1881年(明治14年)2月、歩兵第11連隊長に就任し、翌年、陸軍大佐に進む。
大佐として名古屋鎮台参謀長、東京鎮台参謀長、参謀本部第1局長等を経験し1889年(明治22年)8月、陸軍少将に任ぜられ歩兵第11旅団長に補される。
翌年6月に歩兵第2旅団長に移り、この時日清戦争に出征する。
この戦役では山地元治中将指揮の下金州・旅順・田庄台を攻略し、その功をもって1895年(明治28年)8月、男爵を授けられ華族に列せられる。
1896年(明治29年)5月に威海衛占領軍司令官となり、同10月、陸軍中将に進み、乃木希典の後任として第2師団長に就任する。
1904年(明治37年)2月の日露戦争に出征し功を挙げ同 ……
西寛二郎が亡くなってから、112年と267日が経過しました。(41175日)