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長岡輝子 氏(ながおかてるこ)

女優演出家[日本]

2010年 10月18日 死去享年103歳

長岡輝子 - ウィキペディアより引用

長岡 輝子(ながおか てるこ、1908年〈明治41年〉1月5日 - 2010年〈平成22年〉10月18日)は、日本の女優・演出家。
2度目の結婚以後の本名は篠原 輝子(しのはら てるこ)。
岩手県盛岡市出身。
来歴= 英文学者長岡擴(ながおか ひろむ)の三女として生まれる。
東洋英和女学院卒業。
文化学院文学科中退後、聖心語学校(現・聖心インターナショナルスクール)に移る。
1928年(昭和3年)に渡仏留学し、パリで2年間演劇修業、1930年(昭和5年)に帰国。
アトリエ座研究所で学んだ後、後に最初の夫となった金杉惇郎と劇団テアトル・コメディを設立。
劇団には当時旧制成城高校生の有島行光(森雅之)も参加した。
翌年、金杉と結婚し一子(後にNHKのプロデューサーとなる沼野芳脩[1934年-1997年])をもうけた。
1937年(昭和12年)に金杉が亡くなる。
軍国主義の嵐が吹き荒れていたこともあり、劇団テアトル・コメディは28回の公演、52の戯曲を上演し解散した。
1939年(昭和14年)文学座入り。
自作「マントンにて」の文学座公演を演出した。
1944年(昭和19年)、実業家の篠原玄と再婚。
1947年(昭和22年)、文学座に籍を置きつつ芥川比呂志、加藤道夫、荒木道子などとともに劇團「麦の會」発会。
1949年(昭和24年)、「麦の會」は文学座に合流。
1951年(昭和26年)、春原政久の手による『風にそよぐ葦』で、本格的に女優としての活動を始める。
それまでは演出家としての活動に ……

長岡輝子さんが亡くなってから、13年と358日が経ちました。(5106日)

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