小山祐士 氏(こやまゆうし)
劇作家[日本]
1982年 6月10日 死去享年77歳
小山祐士(こやま ゆうし、1906年(明治39年)3月29日 - 1982年(昭和57年)6月10日)は、日本の劇作家。
人物・来歴=
広島県福山市笠岡町生まれ。
誠之館中学(現福山誠之館高校)を経て慶應義塾大学法学部卒(1931年)。
在学中は小山内薫に私淑、卒業後は井伏鱒二に紹介された岸田國士に師事した。
1932年(昭和7年)、菅原卓らと同人誌『戯作』を創刊。
1933年(昭和8年)に発表した戯曲『十二月』が築地座で上演、翌1934年(同9年)の『瀬戸内海の子供ら』で第2回芥川龍之介賞候補に選ばれ、劇作家としての地位を確立した。
この作品はチェーホフに学び、陰影の濃い台詞を福山地方の方言で描く手法で、戦争のにおい漂う瀬戸内の鬱屈した青春を描き、第2回芥川賞に決定と新聞発表までされながら、戯曲は対象外として取り消された事でも有名。
1937年(昭和12年)、文学座創立に脚本家として参加。
1942年(昭和17年)にはNHK嘱託となり放送劇も書いた。
戦後は、叙情的作風に原爆や公害問題を織り込む作風で活動。
原爆の傷跡を描いた『二人だけの舞踏会』で1956年(昭和31年)、岸田演劇賞受賞。
その他大久野島の毒ガス製造問題を告発した『日本の幽霊』(1965年)、『泰山木の木の下で』(1962年)などを発表。
戦争や原爆の暗い影を背負った人間の孤独を描写し続けた。
1968年(昭和43年)、芸術選奨文部大臣賞(文学評論)受賞。
1975年(昭和50年)、紫綬褒章受章。
墓所は冨 ……
小山祐士が亡くなってから、42年と164日が経過しました。(15505日)