赤松教康(あかまつのりやす)
武将[日本]
(「嘉吉の乱」で、将軍・足利義教を謀殺、嘉吉元年9月28日没)
(ユリウス暦) 1441年 10月13日 死去自害享年19歳
赤松 教康(あかまつ のりやす)は、室町時代中期の武将。
赤松満祐の長男。
生涯=
元服時に第6代将軍・足利義教の偏諱を受けて教康と名乗ったが、のち嘉吉元年(1441年)6月24日、父の満祐や叔父の赤松則繁と共に将軍・義教の暗殺に中心的な役割を果たした(嘉吉の乱)。
そして父や叔父と共に播磨に帰国する。
その後、赤松氏は山名宗全や細川持常らを大将とした幕府軍の追討を受けた。
8月24日に赤松軍を率いて和坂に陣を構えて、人丸塚にいた持常や赤松貞村、武田信賢らの幕府軍を破った(『東寺執行日記』)。
8月25日にも細川軍を破り、武将の吉川経信の侍大将らの多くを戦死させた(『吉川文書』)。
しかし8月26日、但馬方面から山名軍が播磨に侵入したため、坂本に撤退(『赤松盛衰記』)。
このとき前日の雨で増水していた加古川を無理に船や筏で渡ったため、将兵の大半が溺死して一時は教康もこのとき溺死したと噂された(『建内記』)。
しかし坂本も落ち、赤松家居城の城山城に籠もる。
しかし城山城は山名軍を主力とした総攻撃を受け、9月10日に父の満祐は自殺した。
教康は満祐の命を受けて赤松氏存続のために17人の供回りと城の西南から脱出し、室津から船で妻の従兄にあたる伊勢多気城の北畠教具のもとへ逃亡した。
この際、教康は叔父の則繁や満祐が擁立した足利義尊らと共に逃走したとされる(『建内記』嘉吉元年九月二十五日条)。
教具は3日ほど城内 ……