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大石順教(おおいしじゅんきょう)

芸妓、[日本]

(本名・大石米子)

1968年 4月21日 死去心筋梗塞享年81歳

大石順教 - ウィキペディアより引用

大石 順教(おおいし じゅんきょう、本名:よね、芸妓名:妻吉 1888年3月14日 - 1968年4月21日)は、元・大阪堀江の芸妓、日本画家、真言宗山階派の尼僧。
大阪市出身。
本名は大石米子。
仏光院の自坊で遷化(世寿81歳)。
但し『歌日記』にれば本名は「米子」でなく「よね」、また次女でなく長女となっている。
生涯= 道頓堀付近の「二葉寿し」の次女として生まれた。
生まれて間もなく養子に出され、幼少の頃、山村流に師事し、1899年(明治32年)、名取となる。
1901年(明治34年)、堀江のお茶屋(貸座敷)「山梅楼」(やまうめろう)の芸妓になり「妻吉」と名乗り、その主人である中川萬次郎の養女となる。
そこで舞を精進していたが、1905年(明治38年)、養父の萬次郎が内縁の妻に対する邪推から楼内で刀を振るい、6人を殺傷(「堀江六人斬り事件」)、事件に巻き込まれた妻吉は両腕を切断されながらも、一命をとり止めた。
その後、彼女は地方(じかた、演奏する芸妓)に転向し長唄、地歌などを披露しつつ二代目三遊亭金馬の一座などに入り、松川家妻吉の名で旅の巡業をはじめるようになった。
その間、巡業先の仙台の旅館でカナリアが嘴で雛に餌をやる光景を見たことをきっかけに、口で字を書く技法を習得する。
出家して尼僧になろうと考え、持明院の高僧・藤村叡運(1848年-1917年)に相談すると「まず人の妻、人の母になってからだ」と諭され、いったん断念した。
1912年 ……

大石順教が亡くなってから、56年と214日が経過しました。(20668日)

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