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飯塚繁雄 氏(いいづかしげお)

北朝鮮による拉致被害者家族連絡会 元代表[日本]

2021年 12月18日 死去享年84歳

飯塚繁雄 - ウィキペディアより引用

飯塚 繁雄(いいづか しげお、1938年〈昭和13年〉6月8日[1] - 2021年〈令和3年〉12月18日[3])は、日本の人権活動家。
北朝鮮による拉致被害者である田口八重子の長兄[6]。
「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(通称、「家族会」)の代表を務めた[7]。
来歴= 1938年(昭和13年)6月8日、東京市神田区(現・東京都千代田区神田[注釈 3])で生まれる[1]。
疎開で各地を転々とし、終戦後は埼玉県川口市へ転居した[4]。
1954年(昭和29年)、15歳で家計を支えるため民生デイゼル工業株式会社(現・UDトラックス株式会社)へ入社し、機械技術者となるため埼玉県立川口工業高等学校定時制課程に入学[4]、昼は働いて夜は学校へ通う生活を送る[4]。
1955年(昭和30年)8月、17歳の時に末妹の八重子が生まれた[注釈 4]。
1960年(昭和35年)、日産ディーゼル工業(旧・民生デイゼル工業)の上尾工場建設に伴って上尾市に居を移した[4]。
その後、28歳の時に結婚し、3人の子どもを授かった[4]。
妹の失踪 = 1978年(昭和53年)6月、妹の八重子(当時22歳)が高田馬場のベビーホテルに2歳半の娘と1歳の息子・耕一郎を預けたまま失踪[6][8][注釈 5]。
八重子の保証人となっていた飯塚は、八重子の残した借金や部屋代を肩代わりした[6]。
7月4日、飯塚は警察に捜索願を出した[9]。
しかし、何の手がかりも得られないまま半年が過ぎたので親族会議を開き、その結果、八重子の長男・耕一郎は飯塚が[1][4]、娘(耕一郎の姉) ……

飯塚繁雄さんが亡くなってから、3年と195日が経ちました。(1291日)

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