草川昭三 氏(くさかわしょうぞう)
元政治家[日本]
(日本社会党・公明党・新進党・新党平和に所属)
2019年 7月17日 死去急性心不全享年92歳
草川 昭三(くさかわ しょうぞう、1928年〈昭和3年〉8月16日 - 2019年〈令和元年〉7月17日)は、日本の政治家。
衆議院議員(8期)、参議院議員(2期)、公明党国会対策委員長、公明党参議院議員会長、公明党副代表、公明党顧問などを歴任した。
公明党で最初の非創価学会員の議員である。
行動派の論客として知られ、国会での追及の鋭さから「爆弾男」の異名を取った。
国会対策委員長時代には自自公連立政権の発足に尽力し、その後も連立与党のパイプ役を担う。
2013年7月に政界を引退した時点で、当時の参議院における最年長議員だった。
経歴=
労働組合幹部=
1928年8月16日、愛知県名古屋市に生まれる。
太平洋戦争中は勤労学徒として航空機工場で働く。
1945年、名古屋市立第一工業学校(現:西陵高等学校)を卒業。
敗戦直後で食事に事欠く中、名古屋造船(石川島播磨重工業→IHI)の看板に「白米一合二勺支給」とあったことからここで働くことに決めた。
1950年のレッドパージによって日本共産党系の労働組合幹部が追放されると、代わって組合運動に携り、石川島播磨重工業労働組合書記長、委員長を歴任する。
団体交渉では社長の土光敏夫と議論を戦わせる場面もあった。
やがて組合運動だけでは労働条件の改善には限界があると気付き、政治の道を志すようになる。
政界入り=
日本社会党に入党し、1967年の総選挙に日本社会党公認で旧愛知6区から立候補。
社会党元書記長 ……
草川昭三さんが亡くなってから、5年と305日が経ちました。(2131日)