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中島啓之 氏(なかじまひろゆき)

競馬騎手[日本]

1985年 6月11日 死去享年43歳

中島啓之 - ウィキペディアより引用

中島 啓之(なかじま ひろゆき、1943年6月7日 - 1985年6月11日)は、昭和後半期の日本の競馬騎手。
日本中央競馬会の所属であった。
1974年の東京優駿(日本ダービー)優勝など八大競走を4勝、1970年代から1980年代にかけて関東を代表する騎手であったが、1985年に病死した。
通算729勝は当時歴代9位の記録。
父・中島時一は戦前の騎手・調教師で、牝馬のヒサトモで1937年の東京優駿をレコードタイムで制覇している。
また、弟の中島敏文も元騎手で、引退後にJRA調教師となった。
夫人の父(義父)は同じくJRA調教師であった高松三太。
経歴= 父・時一(1947年) 1943年、父の転戦先、東京都府中市に生まれる。
太平洋戦争激化により競馬が休止となり、これを受けて競馬界から引退した父時一の故郷・広島県高田郡吉田町(現・安芸高田市)に、生後間もなく移り住む。
終戦後、幼少期に同地で見た草競馬で、馬を巧みに御す少女の姿に憧れて騎手を志した。
父親は戦後、競馬が再開されても競馬の世界に戻ろうとせず、中国山地の山間の町で農業を続けることを選んだ。
啓之は当地の中学校を卒業後1959年、馬事公苑騎手養成所に長期課程修習生として入所。
卒業後、東京競馬場の奥平作太郎厩舎に所属。
翌1962年に騎手としてデビューした。
同期には郷原洋行、榎屋忍、中神輝一郎らがいる。
デビューからしばらくは、仕掛け(馬へのラストスパートの合図)が早く「あわて中島」と呼ばれ ……

中島啓之さんが亡くなってから、39年と163日が経ちました。(14408日)

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