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高橋掬太郎(たかはしきくたろう)

作詞家[日本]

1970年 4月9日 死去享年70歳

高橋掬太郎 - ウィキペディアより引用

高橋 掬太郎(たかはし きくたろう、1901年(明治34年)4月25日 - 1970年(昭和45年)4月9日)は、昭和期の作詞家。
函館日日新聞の記者時代に作詞した『酒は涙か溜息か』が戦前の大ヒットとなった。
位階は従五位。
経歴[編集] 1901年(明治34年)4月25日、北海道根室郡根室町(現・根室市)で漁師の息子として生まれ、「菊太郎」と名付けられた。
根室商業学校を中退後、根室新聞社に入社。
この頃から「高橋春波」のペンネームで文筆活動を始める。
1922年(大正11年)、函館日日新聞に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら文芸同人誌に参加。
詩や小説、脚本などを手がけた。
1931年(昭和6年)、『酒は涙か溜息か』で作詞家デビュー。
これは自身が日本コロムビア文芸部宛に当時新進作曲家として注目されはじめていた古賀政男を直接指名して投稿したもので、藤山一郎の歌唱で大ヒットした。
1933年(昭和8年)に上京し、各レコード会社から数多くの作品を発表した。
歌謡同人誌「歌謡文芸」を主宰し、後進の育成にも努力し、会員には後に人気作詞家として活躍した石本美由起、板倉文雄、英玲二、宮川哲夫、秋田泰治、橘真琴(のちの星野哲郎)らがいた。
また、1947年(昭和22年)に日本音楽著作家組合、1950年(昭和25年)に日本民謡協会、1960年(昭和35年)に日本詩人連盟の結成に参加した。
1968年(昭和43年)、紫綬褒章受章。
1970年(昭和45年)4月9日死去。
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推定関連画像

高橋掬太郎が亡くなってから、54年と109日が経過しました。(19833日)