八田正 氏(はったただし)
元プロ野球選手、スカウト[日本]
(通算1148安打)
2018年 8月19日 死去前立腺がん享年83歳
八田 正(はった ただし、1936年10月5日 - 2018年8月19日)は徳島県出身のプロ野球選手。
当時は珍しい右投左打の内野手で、二塁手、遊撃手として活躍した。
引退後はスカウトとして新人発掘に尽力した。
来歴・人物=
鳴門高校では遊撃手として1954年に春の選抜に出場。
準々決勝まで進むが、エース畑隆幸を擁する小倉高に敗退。
同年夏も南四国大会決勝に進むが、須藤豊らのいた高知商に敗れ甲子園出場を逸する。
同校の監督は漆原進(元プロ野球選手。
大東京軍などに所属)だった。
1955年に大映に入団し、2年目には遊撃手としてレギュラーの座をつかむ。
球団合併後の大毎オリオンズでも、地味ではあるがミサイル打線の脇を固め、1959年には初の規定打席に到達(14位、打率.278)。
1960年にはポジションを柳田利夫に譲るが、シーズン前半に柳田が負傷欠場し、レギュラーに復帰。
同年のリーグ優勝に貢献し、大洋ホエールズとの日本シリーズにも全試合出場した。
シリーズでは第3戦まで無安打と苦しむが、最終第4戦では9回裏に代打で起用され秋山登から初安打、一矢を報いた。
1961年からは二塁手に回り、1965年には打率.275、ベストテン10位の好成績を残す。
1967年以降はレギュラー二塁手を石黒和弘、前田益穂に譲るが、打撃は好調を維持し、活躍を続ける。
1968年に当時のA級10年選手(再取得)となり、ボーナス受給の権利を手にしたが、支払いを嫌がる球団は彼を自由契約とした ……
八田正さんが亡くなってから、6年と94日が経ちました。(2286日)