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原田宗輔(はらだむねすけ)

仙台藩士[日本]

(通称・原田甲斐、寛文11年3月27日没)

1671年 5月6日 死去斬殺享年53歳

原田宗輔 - ウィキペディアより引用

原田 宗輔(はらだ むねすけ、元和5年(1619年) - 寛文11年3月27日(1671年5月6日))は、江戸時代前期の武士。
仙台藩重臣。
奉行職。
原田宗資の子。
伊達騒動(寛文事件とも)当事者の一人。
通称は甲斐で、原田甲斐(はらだ かい)として知られる。
経歴= 元和5年(1619年) 仙台藩着坐・原田家に原田宗資の長男として陸奥国柴田郡船岡城で生まれる。
幼名は弁之助。
初めは雅楽(うた)と称した。
母は元豊臣秀吉の側室で、のちに伊達政宗側室を経て伊達家重臣鬼庭綱元の室となった香の前の娘・津多。
津多の実父は伊達政宗。
このため宗輔も血縁上は政宗の孫にあたる。
元和9年(1623年)、父・宗資の死去によりわずか5歳で家督を継ぎ、原田家第19代の当主となる。
慶安元年(1648年)に評定役、寛文3年(1663年)奉行首席となる。
禄高は4,380石であった。
この頃、仙台藩では、万治3年(1660年)主君の伊達綱宗が逼塞となり、伊達綱村が伊達家当主となるが、綱村は2歳と幼少だったため後見として伊達宗勝(綱村の大叔父)、田村宗良が命ぜられる(宗輔はこのころ、江戸屋敷に滞在)。
宗勝と宗輔との密接な関係は有名であるが、『仙台市史・近世2・通史4』によると、原田を奉行に推挙したのは藩主・伊達綱村のもう一人の後見人である田村宗良で、この推挙に対して宗勝は「もし家柄だけで原田を奉行にするなら心もとないから、原田の詰番のときにはしっかりとした評定役 ……

原田宗輔が亡くなってから、353年と197日が経過しました。(129130日)

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