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横山エンタツ(よこやまえんたつ)

漫才師、エンタツ・アチャコ[日本]

1971年 3月21日 死去享年76歳

横山エンタツ - ウィキペディアより引用

横山 エンタツ(よこやま エンタツ、本名:石田 正見(いしだ まさみ)、1896年〈明治29年〉4月22日 - 1971年〈昭和46年〉3月21日)は、大正・昭和期の漫才師・俳優。
花菱アチャコとのコンビ(横山エンタツ・花菱アチャコ)によって、それまでの「萬歳」に代わる現在の(全国的に流布した)「しゃべくり漫才」のスタイルを発明し、今につながる漫才の形式の基礎を作った。
漫才作家秋田實のよき相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。
「横山」の亭号を名乗る漫才師一門はエンタツを始祖とする。
横山ノックらは弟子にあたる(一門については下記)。
吉本新喜劇初期の出演者でもある。
来歴= 兵庫県有馬郡三田町横山で生まれた(長沖一は、その著書『上方笑芸見聞録』の中で姫路としている)。
祖父は元藩医で、父も医師であった。
近所に軍人が多い環境で、父も軍医になって日露戦争へ出征したため、祖父母のもとに預けられる。
終戦後、復員した父は姫路市で医院を開業。
それにともない一家は姫路に移り住んだ。
旧制兵庫県立伊丹中学校(現在の兵庫県立伊丹高等学校)を2年で中退し、「馬賊になる」と言って家出。
大正の初め頃、ソウル(京城)に住む叔父を頼り朝鮮へ渡ったが、「面倒をみられない」と言われ、叔父宅での居住を断念。
その後、職を転々とした(このころ関西大学の夜間部に通ったという説もある)。
演歌師に弟子入りしたり、炭坑で働い ……

横山エンタツが亡くなってから、53年と246日が経過しました。(19604日)