宣仁親王妃喜久子 氏(のぶひとしんのうひきくこ)
皇族[日本]
2004年 12月18日 死去享年94歳
宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年〈明治44年〉12月26日 - 2004年〈平成16年〉12月18日)は、日本の皇族。
元華族。
高松宮宣仁親王の妃。
旧名、徳川 喜久子(とくがわ きくこ)。
徳川慶久公爵令嬢。
母は有栖川宮威仁親王の第2王女・實枝子女王。
身位は親王妃。
お印は初めが亀(かめ)、結婚後は撫子(なでしこ)。
生涯=
生い立ち=
1911年(明治44年)12月26日、誕生。
母・實枝子は、有栖川宮威仁親王の王子女でただ一人、夭逝を免れた。
1912年(明治45年)4月12日、両親に連れられ舞子別邸(兵庫県)で静養中の祖父有栖川宮威仁親王の元を訪れると、威仁親王は当時唯一の孫である喜久子を「喜久女、喜久女」と呼び可愛がったため、慰子妃の勧めで、夫妻はそのまま喜久子を舞子別邸に預けて帰京した。
1913年(大正2年)6月22日、病状が重篤となった威仁親王の元に宮内大臣渡辺千秋伯爵が派遣され、大正天皇第3皇男子の宣仁親王(当時8歳)に「高松宮」の称号を与えて有栖川宮家の祭祀を継承させる内諭が伝達された。
威仁親王は翌7月10日に薨去し、国葬が執り行われた。
祖父の死をまだ理解できない喜久子が折り紙の鶴を折ったり、棺の中の祖父に会いたいとせがむ姿は、人々の涙を誘った。
こうして有栖川宮の祭祀を継承する宣仁親王の妃として、有栖川宮の血を受け継ぐ喜久子が擬された。
喜久子自身も、後年、著書の中で2歳当時に結婚が決まったと ……
宣仁親王妃喜久子さんが亡くなってから、19年と338日が経ちました。(7278日)