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玉錦三右衛門(たまにしきさんえもん)

相撲力士・第32代横綱[日本]

1938年 12月4日 死去享年36歳

玉錦三右衛門 - ウィキペディアより引用

玉錦 三右エ門(たまにしき さんえもん、1903年〈明治36年〉12月15日 - 1938年〈昭和13年〉12月4日)は、高知県高知市出身で二所ノ関部屋 (一時期粂川部屋)に所属した大相撲力士。
第32代横綱。
本名は西ノ内 彌寿喜(にしのうち やすき)。
来歴= 彌寿喜少年、誕生= 1903年12月15日に、高知県高知市で農家を営む家に長男として生まれた。
幼い頃から人一倍負けん気が強いのは地元でとても有名で、特に喧嘩と相撲が好きだった。
尋常小学校を卒業後は県内で有名な土佐玉の本家へ奉公に出たが、偶然にもその時に高知へ巡業に来ていた太刀山峯右エ門一行と出会い、一行の中にいた土州山を見て憧れを抱き、力士を志す。
しかし父親の猛反対に遭ったが、土佐玉本家の主人に粘り強く説得してもらって納得させ、友綱部屋で太刀山、土州山と兄弟弟子である同郷の2代海山が経営する二所ノ関部屋へ入門した。
見習いから初土俵= 二所ノ関部屋へ入門した彌寿喜少年だが、当時の体格は身長165cm・体重67kgで体格規定を満たしていなかったため、入門から3年間は見習いとして過ごした。
玉錦の四股名は師匠である二所ノ関の妻「おたま」と大錦卯一郎に因んだという。
夫婦の寝物語で四股名を決められたという逸話は後世の創作とも言われているが、師匠からはそれくらい期待薄な新弟子と見られ、素質にも恵まれていなかった。
師匠は協会運営に携わることが多く、主に本家・友綱部屋に預けられて鍛え ……

玉錦三右衛門が亡くなってから、85年と353日が経過しました。(31399日)

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