島原輝夫 氏(しまばらてるお)
元プロ野球選手[日本]
2004年 7月12日 死去肺炎享年78歳
島原 輝夫(しまばら てるお、1927年2月2日 - 2004年7月12日)は、台湾台中市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。
来歴・人物=
台中州立台中商業学校卒業後は国鉄志免鉱業所に勤務し、野球部で名を上げると、1950年に南海ホークスへテスト入団。
1951年には南海土建へ出向という形で入部し、岡本伊三美・森下正夫らと共に社会人でもプレー。
当チームは僅か1年で休部となり、その後はホークスに戻る。
笠原和夫が不調になった際には代役を務めるなどで出番を増やし、1953年にレギュラーとなる。
打率もリーグ6位に名を連ね、巨人との日本シリーズでは2番・左翼手で先発出場。
第1戦で2本の内野安打、第3戦で3安打1打点を打つ。
1954年には岡本の外野コンバート、簑原宏の加入などによりレギュラーの座から陥落。
以後11シーズンは控え選手となり、1963年に現役を引退。
引退後はラジオ関西(1964年)・RKB毎日放送の解説者を経て、西鉄→太平洋→クラウン→西武で二軍コーチ(1970年 - 1973年)→スカウト(1974年 - 1984年)を務めた。
コーチ時代は伊藤光四郎コーチと共にスイッチヒッターに転向した加藤博一を指導し、スカウト時代は伊東勤を担当。
加藤を指導する際、スイッチヒッターの先駆者である柴田勲に電話をしてノウハウを聞き出したほか、休日返上で練習に付き合った。
2004年7月12日、肺癌のため福岡市内の病院で死去。
享年77。
詳細情報=
年度別打撃成績=
年度 ……
島原輝夫さんが亡くなってから、20年と132日が経ちました。(7437日)