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箱田淳 氏(はこだじゅん)

プロ野球選手[日本]

2021年 2月18日 死去享年90歳

箱田淳 - ウィキペディアより引用

箱田 淳(はこだ じゅん、本名:箱田 弘志(はこだ ひろし)、1932年2月1日 - 2021年2月18日)は、広島県福山市出身のプロ野球選手(内野手、投手)・野球解説者"。
国鉄(現ヤクルト)の球団創設期を支えた"元祖二刀流"。
経歴= 盈進商業(現・盈進高校)から速球投手として鳴らす。
1948年秋季中国大会県予選決勝に進むが、鯉城高に延長14回敗退。
その後も予選で敗れ甲子園出場の機会はなかった。
1951年に球団創立2年目の国鉄スワローズに入団。
スライダー、カーブ、シュート、ナックルを武器にして、3年間は投手として61試合に登板し、4勝10敗。
選手不足から毎年内野手としても数試合出場した。
1953年は投手として30試合に登板し3勝、7月30日には名古屋ドラゴンズを5安打に抑え初完封勝利を飾る。
また内野手としても3試合に出場、代打起用も含め打率.272(92打数25安打)を記録。
4年目の1954年から自ら監督に申し出て打者に専念。
小柄ながらリストの強い鋭いスイングと垢抜けたプレーで開幕から二塁手に定着、初めて規定打席に達する。
打率.323 と打ちまくり球団創設初の打率3割(打撃ベストテン4位)を記録し、三塁手の宇野光雄と共に、これも球団初のベストナインに選ばれた。
1955年に登録名を箱田 淳に改名するが、故障欠場が多くこの年は規定打席には届かなかった。
1956年には三塁手に回るが、打率.259で打撃ベストテン10位に喰い込み、リーグ最多三塁打(13本)も記録。
……

箱田淳さんが亡くなってから、3年と276日が経ちました。(1372日)

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