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山脇東洋(やまわきとうよう)

医学者[日本]

(宝暦12年8月8日没)

1762年 9月25日 死去享年57歳

山脇東洋 - ウィキペディアより引用

山脇 東洋(やまわき とうよう、宝永2年12月18日(1706年2月1日)- 宝暦12年8月8日(1762年9月25日))は、江戸時代の医学者。
長らく禁制とされてきた人体解剖を幕府の医官として日本で初めて行い、その記録を公表した「親試実験」主義の先駆者の一人。
日本近代医学の端緒を打ち立てた人物と評される。
東洋は後の号で、はじめは移山。
名は尚徳、字は玄飛、子樹。
子に山脇東門、門下に小林方秀、淡輪元潜、永富独嘯庵、小杉玄適、原松庵、山脇東門らがいる。
古方派の五大家(後藤艮山、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞、松原一閑斎)、あるいは四大家(後藤、香川、山脇、吉益)の一人と称される。
略歴[編集] 法眼・山脇玄脩に師事した清水立安(丹波国亀山〈現亀岡市〉出身)の子として生まれる。
享保11年(1726年)その素質を見込まれて橘姓の山脇家養子となり、享保14年(1729年)に家督を相続して三代目を継いだ。
後藤艮山から、理論よりも実践を重視する古医方を学んで法眼に叙され、延享3年(1746年)には唐代の医学書『外台秘要方』を復刻したが、陰陽五行説に基づく中国古来の人体の内景説(五臓六腑)を疑うようになる。
その後、後藤艮山の助言を得て試みたカワウソの解剖によっておおよそ人体の蔵象は想像できたものの、疑問は解消しなかった。
同じ年の宝暦4年(1754年)、京都所司代・酒井忠用の許可が下りたことにより、閏2月7日、西土手刑場で斬首された死刑囚・ ……

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山脇東洋が亡くなってから、261年と304日が経過しました。(95634日)

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