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滝田樗陰(たきたちょいん)

編集人[日本]

(「中央公論」編集長)

1925年 10月27日 死去享年44歳

滝田 樗陰(たきた ちょいん、1882年〈明治15年〉6月28日 - 1925年〈大正14年〉10月27日)は大正期の雑誌編集者。
本名は滝田 哲太郎。
総合雑誌『中央公論』の編集長を務めた。
経歴= 秋田県南秋田郡手形新町(現・秋田市)生まれ。
父・滝田以久治は秋田藩士の家系の出で、立憲民政党総裁等を務めた町田忠治の弟。
厳格で教育熱心な父親に期待をかけて育てられた。
秋田中学、第二高等学校を経て東京帝国大学英文科に進学、のち法科に転じる。
在学中に近松秋江が主幹を務める『中央公論』で、ロンドン・タイムズ、デイリー・メール等外国の新聞雑誌類の翻訳アルバイトをするが、やがてその能力を認められ正式な編集者になり、大学はほとんど出席しなくなって中退した。
中退するかどうか悩んでいた頃に、尊敬する徳富蘇峰のもとを訪れ相談したことをきっかけに、国民新聞社に籍を置いた。
しかし社会部長の千葉亀雄に自分の記事を大幅に添削されたことが気に食わず短期間で退社し、中央公論社に舞い戻った。
1905年(明治38年)、『中央公論』に文芸欄を設置。
これによって大幅に部数を伸ばした功績から、1912年(大正元年)編集主幹となる。
もともと『中央公論』は浄土真宗本願寺派系の宗教雑誌だったが、社長の麻田駒之助から編集を全面的に任された樗陰は、文芸欄や政治評論の充実を図った。
すでに大物作家であった夏目漱石、森鷗外や、新進作家であった芥川龍之介を ……

滝田樗陰が亡くなってから、99年と25日が経過しました。(36185日)