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南条文雄(なんじょうぶんゆう)

仏教学者宗教家[日本]

1927年 11月9日 死去享年79歳

南条文雄 - ウィキペディアより引用

南条 文雄(なんじょう ぶんゆう、嘉永2年5月12日〈1849年7月1日〉 - 昭和2年〈1927年〉11月9日)は、日本の明治・大正期に活躍した仏教学者・宗教家。
旧字体で「南條文雄」とも表記される。
字は「碩果」、「松坡」。
近代以前からの伝統的な仏教研究の上に、西洋近代の実証的・客観的な学問体系と方法論を初めて導入した。
早い時期から仏典の原典であるサンスクリット(梵語)テキストの存在に注目。
主要な漢訳経典との対校を行なうとともに、それらの成果をヨーロッパの学界に広く紹介するなど、近代的な仏教研究の基礎形成に大きな役割を果たした。
経歴[編集] 出生から欧州留学まで[編集] 1849年(嘉永2年)、美濃国大垣船町(現・岐阜県大垣市)の誓運寺(真宗大谷派)に生まれた。
幼名は格丸、または格順。
幼時より漢学・仏典の才に優れていた。
1866年、大垣藩の僧兵隊に参加。
1868年、京都東本願寺の高倉学寮に入るものの、翌年帰郷。
1871年、高倉学寮で教鞭を取っていた福井県憶念寺南条神興の養子となり南条姓に改姓。
再び学寮に赴き、護法場でキリスト教など仏教以外の諸学についても修めた。
1876年、同僚の笠原研寿とともに サンスクリット(梵語)研究のため大谷光瑩によってイギリスに派遣された。
オックスフォード大学のマックス・ミューラーのもとでヨーロッパにおける近代的な仏教研究の手法を学び、漢訳仏典の英訳、梵語仏典と漢訳仏典の対校等に従事 ……

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南条文雄が亡くなってから、96年と261日が経過しました。(35325日)