甘糟景継(あまかすかげつぐ)
戦国武将[日本]
(慶長16年5月12日没)
1611年 6月22日 死去自害享年62歳
甘糟 景継(あまかす かげつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
越後上杉氏の家臣。
越後上田衆。
なお、姓は「甘粕」の表記の場合もある。
実戦はもとより、戦略眼・戦術構築等、武勇全般に優れた武将として上杉二十五将に数えられている。
生涯=
上田長尾家譜代の家臣登坂加賀守清高の子。
天正5年(1577年)、上杉謙信の指示により戦死した甘糟継義の名跡を継ぎ、藤右衛門清長と名乗ったが、後に主君上杉景勝の一字を賜り景継と改名した。
なお、晩年に「清長」と改名している。
天正5年(1575年)に護摩堂城主、天正11年(1583年)には、景勝により五泉城主に任じられ、文禄2年(1593年)には庄内酒田城代となり、慶長3年(1598年)に主家の移封に従い会津へ移り白石城代を務め、2万石を知行した。
慶長5年(1600年)、徳川家康による会津征伐に対して守りを固めていたが、「御家中諸氏略系譜」(『上杉家御年譜』)の記述によれば、景勝の命で会津参府中の留守の隙を突かれて、7月24日に伊達政宗によって白石城を奪われた。
慶長6年(1601年)の米沢移封後は6600石を知行している。
慶長11年(1606年)、桜田御門普請の頭取を務め、将軍家より時服と銀子を賜った。
軍記物等では、妻の急死により会津へ戻った留守中に白石城を奪われたとし、そのことで景勝の怒りを買い死罪になりかけたり、以後景勝から冷遇をうけ、直江兼続の一配下に左遷された等の記述があるが ……
甘糟景継が亡くなってから、413年と150日が経過しました。(150998日)