ヨハン・シュトラウス1世Johann Strauss I
作曲家[オーストリア]
1849年 9月25日 死去享年45歳
ヨハン・シュトラウス1世(ドイツ語: Johann Strauss I. (Vater)、1804年3月14日 - 1849年9月24日)は、オーストリア帝国のウィーンを中心に活躍した作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。
ヨハン・シュトラウス(父)ともいう。
ヨーゼフ・ランナーと「ワルツ合戦」と呼ばれる熾烈な競争を繰り広げたことで知られ、代表作には『ラデツキー行進曲』やワルツ『ローレライ=ラインの調べ』などがある。
生前は「ワルツ王」と呼ばれたが、死後には長男ヨハン・シュトラウス2世にその名は継承され、代わりに「ワルツの父」と呼ばれるようになった。
音楽一家としてのシュトラウス家の始祖であり、次男ヨーゼフ・シュトラウスや四男エドゥアルト・シュトラウス1世も音楽家になり、さらにはその子孫からも音楽家となる者が出た。
生涯=
前半生=
1804年3月14日、ウィーンのレオポルトシュタットのフロリアン通りで生まれる。
父フランツ・ボルギアスはここで居酒屋「聖フロリアン」を経営していた。
幼い頃からヨハンは、その風貌から「ムーア人顔」というあだ名で呼ばれていた。
ヨハンはこのあだ名をとても気に入っている様子だったという。
4歳の頃に一家はワイントラウベン通りに転居し、新たに「良き羊飼い」という居酒屋を開いたが、ヨハンが幼いころに倒産してしまった。
ナポレオン戦争とウィーン会議によってオーストリアの財政は逼迫し、社会は深刻な不景気に陥っていたのである。
母 ……
ヨハン・シュトラウス1世が亡くなってから、175年と56日が経過しました。(63975日)