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備前喜夫 氏(びぜんよしお)

プロ野球選手[日本]

(広島球団スカウト部長)

2015年 9月7日 死去肺炎享年83歳

備前喜夫 - ウィキペディアより引用

備前 喜夫(びぜん よしお、1933年10月9日 - 2015年9月7日)は、広島県尾道市出身のプロ野球選手(投手)。
引退後は広島東洋カープコーチ、二軍監督、スカウトを務めた。
旧姓は大田垣(おおたがき)。
経歴= 尾道西高校(現・尾道商業高校)では、エースとして木織武美とバッテリーを組む。
1951年夏の甲子園予選西中国大会決勝に進むが、下関西高に惜敗、甲子園出場を逸する。
同年秋の広島国体に出場、2回戦(初戦)で岡山東高の秋山登と投げ合い1-0で完封勝ち。
準々決勝に進むが芦屋高の植村義信にノーヒットノーランを喫し0-1で敗退。
木織以外のチームメートに控え投手の榊原盛毅をはじめ原田信吉、菊地博仁がおり、3人とも広島カープに入団している。
1952年に創設3年目の広島カープに入団。
契約金は10万円。
当時の広島県内の有力選手は、影響力が強かった広島球団後援会の援助をプロ入り前から受けており、大田垣も「他のチームに行ったら承知しない」と脅されていたという。
オープン戦で好投し、3月21日の対松竹ロビンス戦に新人ながら開幕投手として初登板、完投勝利を飾る。
当時のエース・長谷川良平は中日移籍騒動があり、結局は残留したものの広島に戻ったのが3月20で、開幕に調整が間に合わなかったことから、大田垣に白羽の矢が立ったものであった。
18歳5ヶ月での開幕戦勝利は、現在もプロ野球史上最年少記録である。
2リーグ制以降、開幕投手を務めた高卒 ……

備前喜夫さんが亡くなってから、9年と76日が経ちました。(3363日)

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